さて、この鹿磯の町は、海岸の近くなので、本当に道中の道は真の闇というか真っ暗でした。いつも名古屋の家を出発して、深夜に通る国道156号線(伊吾郎=いごろう)とか国道41号線あたりは、確かに真の闇に近い、山間部など山の間の道は、非常に暗いところもあるのですが、国道であるし、大部分は郊外の街という感じなので、街灯もあるのでそんなに真の闇と言えるほどの真っ暗なところはありませんが、この能登半島の鹿磯(かいそ)海岸のところは、本当に暗かったのです、そして、その民宿に曲がる手前の国道249号線=“にしく”の所に『道下(「とうげ」と読むそうです。「どうげ」ではなくて…)サンセットパーク』
という小さい道の駅のようなところがあるのですが、そこから南のほうに伸びる国道249号線は本当に真っ暗で、何かこう地獄の入り口のような感じがしました。オーバーに言えば、ちょっとブルブルっと身震いがしたものです。本当に、真っ暗なのです。北の方の、わたくしの自動車から、南の方に伸びる国道249号線を見ているのですから、右側(西側)は海なので、一面真っ暗です。灯台も近くには無いので、海と思えば確かに海面は認識できるのですが、左側の国道自体が真の闇の中に横たわっているので、その姿も見えません。そしてそういう真の闇を見ると結構ワクワクしてしまうのです。
まあ、ここまでも大した内容も無くてだらだら書いてしまいましたが、その原因を今回は、まあいろいろ考えてみました。ちょっと飛躍し過ぎてオーバーな感じかもしれませんが、現代人は本当は心の奥底で真の闇を求めているのではないでしょうか。これはどういうことかというと、やはり原始時代、本当に照明器具や火を燃やすことも不可能で、深夜ともなれば、明かりの元は何もなくて真の闇になった事でしょう。だって電気など無かったわけですから、今で分かりやすく言えば、山の中でキャンプなどした時に、やはり、深夜は星明りのみという様な状況に近く、星明りがあればまだ良いのですが、曇りの時などは星も見えず、山の中は真の闇でしょう。今は特に都会はそうですが、明かりがいっぱいあります。まず、自分の住んでいる家の電気やマンションの照明、道路沿いの街路灯、そして道路沿いのコンビニや店舗の明るい照明などがいっぱい燈っていて、オーバーに言うならば、夜の間でも半分くらいは昼のような明るさが、特に都会とか町には充満しています。
なので、★そういうふうに照明のなかった原始時代。 わたくしたちの心に、夜は真の闇が支配するという概念が長い間定着し、それを遺伝的および本能的な要素で受け継いでいるので、そういう深夜の本当の闇こそを人間は求めているのではないでしょうか? また、次のように考えることもできるでしょう。これは別の考え方ですが、例えばみんなが雑談をしている喫茶店の中などでは、何かに集中して考え事をしようとしても、すぐ周囲の状況に集中力が散らされてしまって、散漫になって集中して考える事ができません。(逆にそういうランダムな雑音が聞こえていた方が集中しやすいという変わった人も居るでしょうが、そういう変な意見は、ここでは除外します) そして例えば夜なんかも、部屋の中が真っ暗でないと眠れないという人も多くいるでしょう。 それと同じことで、★やはり本当に真っ暗にならないと、少しでも明かりがあると、閉じた目蓋(まぶた)からそれが脳の方に入ってきて、本当の深い眠りを保証しないのではないでしょうか?なので、そういうことをやはり感覚的、本能的に知っているわたくしたちは、真の闇でないと本当には、安心して眠れないことを知っているので、やはり何がしか、本当に真っ暗で、一条の光も無いような真の闇の夜を、真夜中には、心の奥底で求めてしまうのではないでしょうか?(本日は第2回目で、これでこの項、全部終了)
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