またわたくしの事と思っていただいても良いし、わたくしの親友のK君の身の上に起きたことだと思っていただいても良いです。K君の物語ですわなも……。
『去る者は日々に疎(うと)し…』と言いますが、同じような意味で亡くなった恋人も日々に疎しと言わざるを得ません。 死んだことが判明した当初はあんなに深く嘆き悲しみ、涙も枯れるほど…と言うよりも、もう涙が枯れる状態を通り越して大ショックで、それはそれで途方にくれたものでしたが、 もう半年ぐらい経過した今となっては、もちろん悲しみはより深まるとも言えますが、本当に去る者は日々に疎しですね。
でもわたくしの中ではずっと彼女は…もちろん未来永劫愛しているということですし、当然それは例えば、例の阪神淡路大震災や東日本大震災の時に、多くの人が、肉親や兄弟、子供などを失って、それはもう十何年経ったと言え、その悲しみは日々薄れるのではなく、つまり日々に疎し…どころか、日々に強しとでもいうべきか、益々心にぽっかり穴があいて、毎日毎日、今でも、失われた人に語りかけていらっしゃる人は多いと思います。それゆえ、『日々に疎し…』つまり、日に日にその思いは薄くなるなどと言うと、それはお前がその人に対する思い入れや愛情が薄いんだよと言われそうですが、なんと表現して良いやら複雑な気持ちです。
と言いますのも、皆様もそうだと思いますが、亡くなった人が夢の中に出てきたなどという事を経験したと聞きますが、私の場合は夢にはまだ一度も出てきませんなので、その事を思うと、もう当人としては、ちゃっかりわたくしなんかには、早々に別れを告げ、生まれ変わっているのかもしれませんし、これ、幸いと、もうわたくしと縁を切ったのかもしれません。
こちら(わたくし)の方は素晴らしく運命的な出会いと思って、それこそ悪質なストーカーの様に未来永劫愛している、心を離さないなんて思っていても、思われる方(彼女の方)は案外そうではなく、これを良い機会にまた生まれ変わって新しい別の人生を歩もうとしているのかもしれません。そんな風に言うと、何か変な言い方で批難が殺到し炎上しそうですが、恋愛などというものは、深く情愛を感じるのは、あくまでこちら側からであって、向こうがどう思っているかの真相は、なかなか分かりませんものね。
それと最近特に思うのは、もう本当に、ふたりの思い出の場所とかが至るところにあるので、思い出が無い場所を探すほうが苦労するのですが、『ああ、ここは以前二人で来た場所だな』と思っても、もうそれは、悲しい思い出として脳が記憶から少しは排除したり、薄めようとしているのでしょうか…何か、小学校時代の遠足の公園とか、小学生時代の夕暮れのあの丘の上から見た街の風景とか…そんな遠い遠い昔日(せきじつ)の思い出のように、段々、段々と本当に、遠い状態、懐かしさがこみ上げてくるような、そういう昔の記憶の様な状態になってしまっています。
(第1回目はここまでです。次回の第2回目に続きます。)
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