さて、ちょっと脱線しましたが、本編に戻ります。先ほども書いたように、わたくしは最初今までは、死んだ人間はそれこそ、せいぜい長くても、一年の内には輪廻転生するか、それとも守護霊となって残るかが決まってしまう(又は自分で選ぶ)ものだと思っていました。ただしその他にも、霊界に残ろうと思っても、あまり悪いことをした人は地獄に落とされてしまって、そんな選択の自由は利(き)かないのかもしれませんが、とにかく1年ぐらいで、そういう決断を迫られて行き先も決定されてしまうというのであれば、とてももう20年後、30年後に、わたくしが死んであの世に行ったとしても、そういう人たち(=わたくしよりも先に死んだ人たち⇒自分の親とか、先に死んでしまった恋人、配偶者など)とは絶対、お会いできないなと思っていたので、そういうこと(=実は350年の猶予期間があるという事)を聞くと、何かある意味ホッとして、とても嬉しい穏やかな気持ちになります。
死後あの世に行ってから、次の生まれ変わりまでに350年あることを聞いて、こんな気持ちになるのはとっても変に思われるかもしれませんし、わたくし以外にはあまりそういう気持ちになる人はいないのかもしれませんが、このように丁寧に説明解説して記述するならば、その気持ちは判っていただけると思います。
わたくしが大好きな松本清張先生と、同じ様に大好きな森村誠一先生が、どこかの小説の中で、『人間は5万回ほど生まれ変わって同じ生を歩む…』という、これは仏教の教義なのでしょうか?そういう事柄を書いておられました。そのとき5万回と聞いてビックリした覚えがありますが、そうするとわたくしの今のこの人生は、まったく同じ…ほとんど同じということですから、ひょっとしたら今の人生は37,502回目ということもあるでしょう。しかし、一生懸命。 努力して。 今日できなかった筋トレは明日は必ずやるぞというふうに切磋琢磨(せっさ・たくま)しているのに、まだあと13,000回弱もほとんど同じ人生を歩むということは、ちょっとげっそりするような感じを拭えません。
ただ、同じ人生を歩むという点においては、例えば死んだ親や死んだ恋人、生き別れて、その後亡くなった友人などにももう一度会えるということですから、その点では非常に嬉しかったのですが、ただ同じ人生を歩むということは、再度その人生に“投入”された自分には、(また過去世で交わった多くの人たちに)遭遇できるという事はほとんど知らされていない訳ですから、また生まれ変わったら生まれ変わったで、そういう人たちと出会った喜びを味わい、そしてその人たちが亡くなった時、再度前世と同じ悲しみを味わうのかと思うと、それはなんとなくまたげっそりしそうな感じではあります。
まあ、そういう風に色々な思いは想像できますが、次のような疑問も、また同時に発生します。350年の猶予があるのならば、その間にやはりまた(例えば、現人生においても言われている様な、“魂が次のステージに行けるような努力…難行苦行(なんぎょう・くぎょう)”をしないといけないのでしょうか?それともそこはもう、一種の控室の様なもので、次の生まれ変わりへの準備をして待つような状況なのでしょうか?
ただ、控え室で350年というのはあまりにも長すぎるので、やはりそこはそれでまた、長い霊界の人生のようなものがきっと展開されるのでしょうね。それに、それはこの霊界に来る前に生きた『現世』(この時点ではもう霊になっている訳なので、『一段階前の過去世』と呼ぶべきか……)の生きざまを元にして、色々毎日反省会が繰り広げられるのでしょうか?それはそれで真剣に350年と聞くと、何せ現世の3倍の長さがある訳ですから、そこにはそこで、再び、それこそ3.5倍のドラマが存在するということになるのでしょうか?それも何か恐ろしい感じがしてなりません。
ほとんどの人は、親の方が自分より先に死んであの世に行くでしょうから、当然、350年もあれば、親も輪廻転生で生まれ変わるのを待っていて、あとで死んで霊界に行った自分と会うことができるでしょうし、逆に自分が死んだ場合、霊界に行ってから、350年という長い期間が横たわっている訳ですから、例えば自分が死んでから百年後くらいの間に死んだ人、つまり、自分の子供や孫たちを含めて、後から霊界にやってくる人にも会えるわけです。このように100年先に霊界に行った人にも会えるし、100年後に霊界に来た人も会える。 ということで、この350年というのが本当に私には嬉しく、ずしんと心に響きます。
(今回はここまでです。次回からは、新しいトピックで執筆します。)
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