わたくしはいつも書いておりますように、能登半島ぶらり旅などに、深夜の2時頃に出発して、伊五郎(いごろう)を走ります。伊五郎とは156(いごろう)すなわち、国道156号線のことで、名古屋市の名駅少し東の納屋橋(なやばし)をずっと北上すると、岐阜辺りでこの 156号線に合流して、ず~~ッと東海北陸自動車道と平行して走って北上して、最終的には、富山の南砺(なんと)市あたりに到着して、能登半島の根元に着くのです。その途中、全くの深山幽谷(しんざんゆうこく)という場所はほとんどありませんので、明かりの消えた田舎の郊外の道という程度の、それでも非常に暗い感じがします。ただ、真っ暗という事はないのですが、何箇所か自動車のライトを消して走ると、山の中近いような場所では本当に、『真の闇』=真っ暗闇に近いものはあります。
また能登半島の海辺を深夜に自動車で走ったり、徒歩で散歩していますと、確かに、海の遠くに何かの明かりとか、空の星や月の明かりのみの、都会では味わう事の無いような暗さがあります。しかし人間は普通に生活していたら、真の真っ暗闇というものはあまり経験しないと思います。しかし田舎で、多少なりとも旅館に滞在するとわかりますが、都会は本当に明るいです。昼も深夜もとても明るいです。照明やライトに満ち溢れています。コンビニの明かり、ビルの明かり、自動車のライトの明かり、深夜営業の店の明かり、事務所の灯り、街灯の明かり……。特に道路は街路灯などがついていて非常に明るいので、わたくしが自動車で走行する時、いつも思うのですが、中央分離帯などに植えられている植物たちと、そして、クスノキなど道路の両側に植えられた街路樹たちは本当に、常時昼間のような明るさに照らされていて、休んだり眠る時間すらも無いのではないでしょうか?そういう植物たちを見ると心なしか寂しそうな顔をしているような感じがしないでもありませんが、雨が降ると多少は慰めのようにシャキッと見えるようにも感じます。本当にとても心配です。それに比べれば、田舎と言われる街のはずれにある、森や林の木々や植物たちは、都会のそれらに比較すれば、本当に深夜真っ暗になるので、幸福だと、いつも私は思います。
さて、いつも何を書きたいのか、皆様に伝えたいのか、全然不明瞭なエッセーを書いていますが、いつもの事だと思ってご勘弁くださいませ。
今言いましたように、真の闇というのは、特に都会人の日常では、ほとんど感じたり、経験する事は不可能だと思うのですが、小説や物語ドラマの中で例えば、お寺の電気を消した真っ暗な本堂の中で感じるような闇、また、どこかの山寺の裏にある様な、『胎内めぐり』などと宣伝されている、一種の小さい洞窟で、電気を消した全くの闇というものは、日常生活では無縁です。
さて、わたくしが思うには、人間、ちょうどきちんとした睡眠をとらないと、身体にとても悪いのと同様に、本当は、夜中などは、もっと周囲が、真の闇の様に真っ暗になった方が、肉体にもっともっと、いつもの明るい環境よりも、はるかに良い影響が与えられるのではないかという事です。ちょっと思うには、そういう真の闇を経験すると、人間の精神とか心というのは、ちょっとだけ本当に休息が得られるのではないかと思います。 もちろん普通の生活でも、夜中になってベッドや布団で就寝すれば、それはそれで、真っ暗にすべく電気を消す人も多いので、そして、睡眠のために意識がなくなってしまえば、確かに真の闇に近い状態の中にいると言っても言えないことはありませんから、それはそれで心や身体は適度に、必要最小限には癒されるとは思いますが……。しかしわたくし、時々そういう山中などを(別に大好きな怖い本に書かれているような心霊現象を求めて、深夜の山をドライブしている訳では決してありませんが…)ドライブする時、本当に暗く怖い経験をするたびに、上記のような、一種心の休まる思いをします。
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